感動の日本語サポート!フィリピンでの心温まる絆

お兄さんの手術も無事に終えましたが目を覚ますと体は動かず話す事もできず

周りはフィリピン人だけで不安と辛さでパニックになり落ち込んでいました。

泣いている時もあり介護の経験もない自分には周りのお世話をするくらいしか

できませんでしたがお兄さんのベットの前を通るインターンがお兄さんに

だいじょうぶですか?と日本語で話しかけてきたのでビックリ!

それからは他のインターンもベットの前を通るたびに日本語で話しかけてくれ

最初は挨拶程度でしたが「ゴハンタベテゲンキニナッテネ」とか会話になり

お兄さんの顔色も少しづつよくなり微笑むようになってきました。

インターンにどうして日本語が話せるようになったのか聞くと

みんなでお金を出しあって一冊の日本語辞典を買って毎日話しかければ

お爺さんも元気になってくれるんじゃないかと思いましたと話してくれました。

そんなとき女の子が訪ねてきました。

お兄さんのフィアンセです。

女の子はごめんなさいあの時は恐くなって逃げてしまいました許してください。

でも彼の事が忘れられず来てしまいましたと言いお兄さんも微笑みながら

だいじょうぶとサインをし、それからは女の子は毎日来るようになり献身的に

お兄さんの世話をしお兄さんも少しづつ元気になっていきました。

フィリピン通の大半の方々はどうせ日本のビザや金目的だろうと言うと思います。
正直、僕も最初はそう思いました。

でもね・・・この話はまた後日させていただきます。

 

ダバオで衝撃の真実

ダバオに着くとガイドさんが迎えに来てくれていてそのまま病院に行き

ドクターに病院に担ぎ込まれた経緯や病名などの詳細を聞き手続きをして

日本で心配しているじいちゃんに電話をして手術の日取りも決まり

僕はガイドさんと食事がてら病院の周りを散策しに出かけました。

しかし僕の気持ちの中にはモヤモヤしている事がありじいちゃんにまた電話しました。

そもそもじいちゃんのお兄さんはなんでフィリピンにきていたのか?

それは日本のフィリピンパブでたまたま隣に座った女の子の接客態度がよく

お兄さんはデレデレになり毎日通ううちに好きになりプライベートでもデートをし

3カ月目には結婚の約束をし彼女は日本での仕事も終わったので帰国し

お兄さんは彼女の家族に会って挨拶するためにフィリピンに来たそうです。

しかし海外はじめてで舞い上がっていたのかモールで急に倒れてしまい

病院に運ばれましたがその時には付き添いもなく女の子もいなかったそうです。

当時のお兄さんは72歳で結婚を約束した女の子は22歳でフィリピン初心者の

僕にとっては理解できずモヤモヤが更にモヤモヤになりモヤモヤのまま

病院に帰りドクターや看護師さんお世話をしてくれている方たちに挨拶をして

ひとまず予約されていたホテルにチェックインしました。

フィリピンに住むようになってからわかった事ですが日本から女の子を

追いかけてくるオッサン多すぎ!

この話はまた後日させていただきます。

路上でのコーヒータイム:マニラからダバオへの旅路

僕がマニラのニノイアキノ空港に着いたのが夜の10時半頃で

そこから国内線の空港までバスで移動し飛行機でダバオという所に行くのですが

その飛行機が飛ぶのは朝の6時半で約8時間何していようと思いながら

とりあえず空港内の両替所で5000円だけ円からペソに両替して空港内探索。

ブラブラしていると警察官らしき人に声をかけられ何をしていると聞かれたので

身振り手振りと簡単な英語でダバオに行くと伝えると時間はまだあるから

ついてこいと言われガイドブックや旅行会社の人が言っていた悪い警察官だったら

ヤバイよなぁと思いながら好奇心とヒマには勝てず付いていくと空港の外に出て

建物沿いに歩いていくと路上におばあさんが座っていてその横にはポットがあり

警察官も路上に座るとお湯の入ったカップとスティック状のコーヒーが出てきて

僕にとってはフィリピンで初のコーヒータイムは路上でした。

コーヒーをおかわりしながら身振り手振り日本語・タガログ語・英語ごちゃまぜで

会話も弾み気がつけば一時間以上になり警察官は仕事に戻るからと

おばあさんに代金を払ってくれ空港内でも危険だから寝るなよと言いながら

仕事に戻っていき僕はまた一人で時計を見てはボケーっとしたりブラブラしたり

時間をつぶしていましたが警察官とおばあさんのおかげで気分的には楽でした。

夜が明けた頃また警察官が来てバス乗り場まで案内してくれ

何かあったら電話しろと携帯番号を渡され僕がバスに乗るまで見送ってくれました。

その警察官と長い付き合いになるとはその時は思いもよりませんでした。

 

人生の分岐点

1985年9月?頃の夜フィリピンのニノイアキノ国際空港に降り立ちました。

経緯は友人の家族が三軒茶屋で営む薬屋に寄ったら友人は忙しそうだったので

僕は店の隅で待っていたら待合室にいたじいちゃんがこっちにきて座れと

呼んでくれたので座ったら周りはお年寄りばかりでどこから来たとか

どこか悪いのかとかいろんな事を聞かれ僕は元々ばあちゃんに育てられたので

そのうち会話も弾み流れでマッサージをしたらウケがよかったのか

今度はいつ来るとか楽になったとか気持ちよかったとか言われ僕も嬉しくなり

それからはたまに顔をだしていました。
そうしたら突然じいちゃんから近くに使っていない家があるから

そこでマッサージ屋やらないかと言われ最初は三茶に住めるような身分じゃないと

お断りしたんですがじいちゃんにしつこく言われとりあえず見に行きました。

そうしたら茶沢通りという商店街のすぐ裏で家は駐車場もあり高そうだったので

家賃の事を考えたら無理だと再度お断りしたらもちろん家賃はいらないと!?

たまにタダでマッサージしてくれたらいいと言われ僕の頭の中の計算機は

三茶=一軒家=リッチ=モデルや芸能人いっぱいetc…で即引越しして開業!

開業はしても看板はだしていないし宣伝もしなかったのでお客さんはお馴染みの

じいちゃんばあちゃんだったので楽だったのですが口コミで開業して半月後には

近所の喫茶店が待合室になるほどまでになりました。

お年寄りの情報網侮れません!

数か月後お世話になっているじいちゃんが元気がなかったのでどうしたと聞くと

「兄がフィリピンで倒れたが誰も行けないからお前行ってくれないか」と
当時の僕はフィリピン=セブくらいの知識しかなく言語も何もわからないから

役には立てないと言いましたがじいちゃんも障害があり飛行機に乗れる状態ではなく
「パスポートはあるよな?旅行会社には伝えてあるからすぐに電話してくれ」と
言われるがままにチケットを用意させられ何もわからずその日の夜には旅立ちました。   

いま考えるとこれが人生の分岐点だったんだなと(笑)

 

 

はじめまして

はじめまして1958年製のポンコツです。

このブログを作ろうと思ったキッカケは先日友人と飲んでいて

フィリピンの事を話していたとき自分の記憶が曖昧だなぁと感じ

自分ではまだまだと思っていても歳だし脳梗塞も経験しているので

記憶が飛ぶ前に記しておこうと思ったからです。

なので誰かに読んでもらうというよりかは自分宛のブログになるので

記憶間違い・誤字脱字・言葉遣いなど多めです。
あとは感じた事や趣味・好きな事などを残していこうと思います。

 

でもたまたま飛び込んできた時はこんなジジイもいるんだと読んでくれたら

嬉しいです。

 

 

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